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本質の大安売りの時代

私たちは本質の大安売りの時代にいる。まさに本質のデフレだ。


あらゆる記事には『○○の本質』というタイトルが並び、私たちは期待を胸にクリックする。しかしそこには期待した内容は含まれておらず、すぐにそのページを閉じることになる。今日も無駄な記事に時間を使ってしまったと後悔するのだ。

 

就活の本質とは?
仕事の本質とは?
イノベーションの本質は?
五輪エンブレム騒動の本質とは?

 

誰しも一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
実際に、Googleで『本質』と検索すれば、あらゆる事象に対する眩しいまでの本質論が目に飛び込んでくる。

 

メディアだけではない。一般個人ですら、この本質論の供給者だ。
実際に、Twitterで『本質』と検索してみてほしい。どこかの誰かが、20秒に1回は「本質」「本質的」とつぶやいている。それだけ私たちは本質論が大好きなのだ。

 

ただ、それ自体は決して悪いことではない。
人々がより真実に近づくために思考を巡らせる行為だ。むしろ歓迎すべきではないだろうか。

 

ではいったい何が問題なのか。

 

それは、考えることを放棄し他人の本質論に委ねるのが危険だからだ。


世の中に溢れる本質論は、聞き心地は良いが間違った認識も多い。本質論に出会ったときには疑ってかかるべきだ。なぜなら、これから先も社会が複雑化し続ければ社会は本質を求め、供給も比例して増える。あなたはあらゆる場面でどこからか借りてきた他人の本質論を当てはめることで、間違った選択をしかねないのだ。これは危険だ。いつの間にか浸食する、認識のない危険さだ。

 

まずは本質の定義から順に追っていく中で説明していきたい。

 

本質的とは

本質的とはなんなのか。
辞書によると、『物事の根本的な性質にかかわるさま』だそうだ。

どうやら、主に表面的の対義語のように使われ、一般的に複雑とされている事象に対して、これだと1つの性質を解として示す行為のように思える。巷にあふれる○○論を想像してもらえばイメージがつきやすいだろう。

 

本質を求める行為とは

それでは人々は本質にどのようにたどり着いているのか。
整理し、単純化し、要点を取り出す。基本的にはこのステップを踏んでいる。
つまり、世界というものが人間にとって複雑で情報が膨大すぎてよくわからないから、簡単に考えるための作業ということだ。

なぜ本質論はウケるのか

なぜ本質論はウケるのか。

単純だ。考えるのが面倒くさいからだ。

いちいち本質がどーのこーのと考えるほど暇じゃないのだ。人間の認識には限界がある。膨大な情報だと人間は理解できないが、少ない情報に減らせば理解できるようになる。うまく情報を減らせたとき、人間は物事の本質を掴んだという気になれる。脳みその引き出しから取り出しやすくなる。○○まとめのような情報が好まれるのも納得だ。

 

では何が問題なのか

ここまで本質の定義、プロセス、なぜ本質を欲するのかについて述べてきた。
では冒頭に述べた通り、なぜ本質論に出会ったときには疑ってかかるべきなのか。

 

まず、物事の本質というのはある前提条件や制約条件の中でしか成立しないものだ。
例えば林檎の場合。林檎の本質を『糖度の高さ』と置いたとしよう。その場合、糖度の高さという本質は、我々人間が林檎を食べるものという前提条件のもとに成立する。これは単純化した例だが、このように前提条件や制約条件を無視した実用性のない本質論は多い。

 

また、対象物の本質自体が複雑である場合も存在する。あらゆる事象と複雑に絡み合いながら存在するのだ。その場合に注意すべきが、「本質的でない部分を削ぎ落とした」という行為自体が、本質を構成する複雑な構造体の大部分を切り捨ててしまっているケースだ。

 

さらに、一度真理だとされたものはその真理の現実の再現度の高さを無視され、間違った認識を与えてしまう。本質に向って圧縮された性質は、再度使用され得る精度の高さが伴う必要がある。まさにzipファイルの解凍のようなイメージだ。それが出来ないのであれば、徐々にその認識は当初のものとズレが生じ始めてしまう。

 

では我々は本質論とどう向き合うべきなのか

まずは何が本質かと人々に提示し、人々がそれに納得するとき、本質についての共通理解が得られたわけではないということを肝に銘じなければならない。なぜなら、単に「利害」が一致しただけであり、共通理解ではなく、お互いに都合のよい共通誤解が得られただけなのだからだ。

また、対象物の本質自体が複雑であるとき、その対象物を扱う正しい態度が存在する。その本質自体の本質的複雑性と理解不可能性を認めた上で、特定の文脈に依存した特定の共通利害を確立することに満足するに留める、これが謙虚な態度だ。

さらに、情報の圧縮として物事の本質を考えると、圧縮しすぎて、精度の低くなった現実でしかないことを受け入れざるを得ない。

これらと向き合い、もがき苦しみながらも、本質の大安売りの時代という荒波を上手に乗りこなしたいところだ。